責任感という言葉があります。
自分の仕事・行為についての責任を重んじる行為
(引用元:Oxford Languageより)
たいていの人は、その責任感を素晴らしいものだと思っています。
責任感はないよりもあったほうがいいとすら思うことでしょう。
もろん、正しいです。
しかし本当にそうでしょうか?
本物の責任感というのは、実は「表面的には責任がないとき」に発揮されて輝くのです。
学校の先生は、学校の先生になっているときだけ責任感を持っています。
親は子供への責任がありますが、18歳になって成人になったら責任は子ども自身へとたいていは移っていきます。
しかしこれは表面上の話です。
責任というのは区分されたものなのですね。
しっかりと境界が区切られているということは、実はそれだけ「はっきり」と責任感が浮き彫りになるということ。
明確にメリットもある分、デメリットもあります。
「もうあなたは私の生徒ではないので。あとは知りません。責任ないんで」とか
「とりあえず自分に責任があるときだけしっかりと子供の面倒みよう。その人が後にどうなっても別にいい。今は関係ないんだから」
という人もたくさんいるのですね。
いちばん身近で本人を支えてくれている人が「○○の話を聞いた時、『この人は本人さんが自分の手を離れたら、もうどうでもいいんだな』って感じたんです」
手を離れたら、もう自分の責任じゃないから知らない。自分の責任のうちは問題にならなければいい。
そういう考えを見透かされたみたいだよ。
— ちゃぺっく (@fukufukucapek) December 17, 2022
こういう人たちは責任をしっかりと区分している人です。
それはそれで合理的です。
しかし、人の心というのは、なんとも合理的ではないのです。
自分に責任があるときだけしっかりしているという人は、「わかりやすい責任感」ですね。
それはそれで素晴らしいのですが、ツイートにもありましたように、「冷たく・自己本位的にすら」感じてしまうのは私だけでしょうか?
本物の責任というのは、「責任を全うする」ところで感じるものではないと思うのです。
むしろ、自分に責任が生じていないにも関わらず「その人たちのことをどこまで思いやれるのか?」というところにあると思います。
あなたの責任の有無がないときこそ、本物の責任感は輝きます。
本来はしなければならない責任を負っていないときに、自分の意志で人に何かのリソースを与えようとしたり。
他人を引き上げようとしたり、よりよくしようとしたり、救い上げようとしたり。
そのようなことをしようとする心が、義務さえない本物の責任感に代わる感情なのですね。
その責任感の名前を、私は思いやりと呼んでいます。